ちょっと裏山を登ると南北朝時代の古戦場跡になる京都

ちょっと裏山を登ると南北朝時代の古戦場跡になる京都
何故だかいつもより多忙な8月を過ごした私。9月に入っても中々気の重くなるような仕事が続き、やっと自由が戻ってきた、と同時に仕事が減ってきた不安を抱えつつ朝からお散歩に出かけます。(行くんかいっ!)

6時前に家を出て坂道を登っているとふと裏山にあると言われる中世の山城に今日こそじっくり登りたくなる衝動に駆られる。

比叡山の東隣、向かって右にある山です。名前はてんこ山(笑)天子山と案内されている場合もあるようでそう書くとよい感じ。


左のこんもりがてんこ山です



こちらは4月の比叡山画像。右側のこんもりがてんこ山です。


曼殊院というお寺の横から一直線に山へ



この山は修学院離宮の庭園の景観を作り出す形の良いお山でもあります。

山道は途中から荒れだしよじ登るように歩きます。

なんかカサカサと音がしてるようなしてないような。

去年の今頃熊が市街地まで降りていた騒動があったので怖くなって安全そうな道まで引き返し遠回りで登りました。



中々シュールな曲線を描く根っこをまたぎながら峰続きにてんこ山頂上付近へ。


大文字山と同じくらいの高さ

そして一乗寺山城


山の頂上なのに不自然な土塁状の高まりと平坦地が連続して広がります。450年前確実にここに城がありましたね。当時の武士もここで私と同じように口開けてぼっーっと立ってたんやね〜ワクワク

ここよりさらに比叡山側に行くと水飲対陣跡という変わった名前の場所があります。

1336年、比叡山の一般的な登り口の雲母坂(きららさか)というところから2〜300メートル登ったこの辺りまでの間、鎌倉幕府滅亡後の南北朝の攻防の最後の激戦があった古戦場となります。


水飲対陣跡の石碑。


たしかにすぐ下に側が流れていますね。

ここからさらに比叡山にかけて足利尊氏の弟直義率いる北朝側が南朝側を追い詰め、後醍醐天皇の忠臣 千種忠顕を討ち取った場所とされています。

後醍醐天皇は忠顕が北朝側を食い止める中、八瀬の人々の尽力により比叡山に逃げることができ奈良の吉野に逃げる事ができ南朝を開く事ができました。

この時の南北朝のゴタゴタは実は今上天皇の代までいわくを残すという壮大なスケールで残ります。

忠顕という人も史実の信憑性がどこまでか定かではありませんがなんとも魅力的な男です。

詳しく書くと長くなるので興味のある方は「千種忠顕」と「南北朝時代」でググってね


ちなみにこの時後醍醐天皇を比叡山に導いたこの時の功績により八瀬の里の人々は永年税免除という特権を得ることとなります。

私が八瀬童子について過去に書いた記事です。

『京都文化博物館にて』
先日、ブログで触れました八瀬童子。なんと京都文化博物館で展覧会やってました。歴代天皇からの綸旨とよばれる書簡などが重要文化財に指定されていたんですね後醍醐天皇…


https://ameblo.jp/yamanaka-gato/entry-11436514390.html?frm_id=v.jpameblo&device_id=28c885ac6fbf4b24ad5b9aa57a8d63d1


えっ?いや、ちょっと待ってください!!



6時に登り始めていつの間にか9時過ぎてますやん((((;゚Д゚)))))))

てことで慌てて雲母坂から下山しました。
今日は朝からやる事いっぱいあるのに忘れてましたわ〜